うに甚について
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うに加工の技術は下関の端、玄界灘の東端に浮かぶ六連島という小島で誕生した。 もともとうにを食用とする歴史は古く、下関市安岡にある潮待貝塚からは約2000年前のうにの殻が見つかっている。また文化・文政(1804-1829)の頃から採取、販売も行われており、塩漬けによる加工は、文久年間(1861-1862)に庄屋の久七が考案したと伝えられている。 そして明治20年(1887)のある日、外国人の船員がこの島の西教寺九世の蓬山和尚を訪ね歓談していたところ、盃に注ごうとした酒が誤って塩漬けうにの小鉢にこぼれた。それを口に含むと意外にも美味であった。酒瓶を見るとアムステルダム・オランダという刻印があり、その酒は度数45度のジンであったという。蓬山和尚は、さっそく六連島で一番の塩漬けうにの業者、城戸久七(きどきゅうしち)に酒漬けうにを試作させた。その後、城戸はさらに研究を重ねながら、独自の製法を極めアルコール漬けうに製造の元祖となり、商号「雲丹久」とし全国に名声を広めていった。 その優れた製品は明治36年7月、第五回内国勧業博覧会で入賞、明治40年12月には連合水産共進会において再び入賞を果たした。
のちの「うに甚」創業者、上田甚五郎は十六歳のときアルコール漬けうに製造の元祖、城戸久七に弟子入りしうに加工技術を学ぶこととなった。そして城戸久七75歳の時、将来の瓶詰うにの発展を思慮し、秘法であるうに精製六十年間精進の奥義を甚五郎に授けたとされる。 この時、上田甚五郎31歳であった。(参考資料「名産六連島雲丹のタメニ」大正六年九月二十二日、六連島に於いて、執筆者:湊 久太郎 検問者雲丹久事:城戸 久七) 甚五郎は雲丹製造元祖として城戸久七の偉業を受け継ぎ、加工技術の研究に専念した。製造秘法の伝統は甚五郎創業の「うに甚」において現在まで守り続けられている。 これが創業百年の粒うにの元祖といわれる由縁である。平成八年十月にはうに甚三代目社長、上田弘志が城戸久七爺の偉業を讃えて六連島、西教寺境内に「うに継承の陣」を建立した。
下関の六連島でジンが粒うににこぼれて誕生したアルコール漬け粒うにですが、うに甚で現在使っているのは95度の酒精(アルコール)です。アルコールを使うのは、うにを「凝固させる」「殺菌する」「熟成を促す」為です。その結果保存性が高まり、なおかつ生うにとは全く違う旨味を生み出すことができるのです。アルコール漬け粒うにを誕生させた元祖である城戸久七(きどきゅうしち)が試作を始めてから、元祖を受け継いだ「うに甚」創業者、上田甚五郎を経て100年を超える試行錯誤が続いています。どんな素材が、アルコール漬け粒うにの旨味を最大限に引き出すのか。「なぜ95度なのか」その答えはうに甚の味をお試しいただければわかるかも知れません。